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2011年10月 1日 (土)

■■ 訃 報 ■■ 

Naritasan01

■■ 訃 報 ■■

WGM創設時よりのメンバーとしてご一緒に活動してこられました成田様が10 月1 日にご逝去されました。ご遺族様の希望で家族葬とのことでしたが、生前親交の深いWGM会員も多数参列することを許されました。成田様のご冥福と残されましたご家族の皆様のご平安をお祈り申し上げます。
突然のことでした。難病に侵されていることは承知していても、この夏には一緒に鳥取の大山に登り、未だ見ぬ九州・四国を回遊したいといっていた君がこの10 月1日に突然、逝かれるとは。6 月末に、7月11 日に腰の手術を受けるので旅行には行けそうにないという断りのメールを受けながら。何故、この夏にあの八日市場の思い出の君の別宅(末事ながら私が設計し、落合君提供の檜の大黒柱が屹立する君の第3の故郷の家)に落合君共々会いに行かなかったのか、悔やまれてなりません。
君との出会いは何時だったのか?それは第一回の坂戸毎日マラソン(1980 年)か、事実上その後のWGM 発足の時(1984 年)か?いや違う、何かもっと昔から、それこそ君が秋田に、落合君は熊本に、私は横浜いた頃から...、当時は歴史に残る集団就職の時代です。それから20 年後に初体面した我々に言葉の障壁(秋田・熊本・いい加減な横浜弁)はありませんでした。
我が住宅の半地下には、その頃から梁山泊というか、不良中年、今では不良熟年、はたまた老年か。そこでは恒例の新年会・春の農業菜・夏の山行の作戦会・秋の収穫祭・必要に応じた飲み会(晴天では畑・雨では此処)が有りました。この30 年近く、WGMのの歩みと同じくそこで語られていたのは、自らの来し方行く末の事ごと。そこに成田君お得意の「君ね-、それは違うよ」と天下国家を語る硬派の君がなつかしい。こんな事を言われた彼方、思い当たりますよね。そんな中、最も矢面にされたのは、関谷君でした、何故かというとそれは、単に彼の職業が公務員だっただけです。
東北人は戦前から、何時も日本の調整弁でした。江戸時代・明治維新・第二次世界大戦と続き、上野駅が迎えた戦後の集団就職(覚えているでしょう、あの「三丁目の夕日」)。
そして今回の東日本大震災に加えて福島第一原発事故。でも、関谷君にしてみれば、これは大変な迷惑、何故って、彼は福島の隣の栃木の出身、それこそ福島原発至近の被害地、関東とは言っても東北の色も濃厚な地。つまり、彼が攻撃していたのは、このいい加減な日本国の体制、言はば、生まれ故郷(秋田)からの反骨精神の表れだったのではないでしょうか。

こんな事ばかりいっていては、君のもう一方の、輝かしいアスリ-トの世界をないがしろにしているような気もします。何故って、我々皆が付き合って来たのは、このWGM の世界(何歳に成っても、俺が勝った・おまえはダメだ・今度は負けねえぞ)。その千代田公園では君は何時も先頭をきって走っていました。君は、生国では400m のトップアスリ-ト?と聞いています。東京では?でも長い距離は苦手だった様です。いやそうでは有りません。アルバムを紐解いてみれば、君は他の仲間と同じく、マラソンの先駆者である所さん(牛に引かれて善光寺ではありませんが)に引かれ、最初から河口湖マラソン(1986 年第11回-43 歳)に挑戦しています。それも4 時間を大きく切って。だけど、君について言えば、あの劇的なアンデルセン状態はこの時だったのか、それとも次の年だったのか?
いやそんな事はどうでもよい。その日、WGM メンバ-の殆どがゴ-ルし、ヤツは如何したんだ?という時に君はひょっこり帰ってきた。それも全身血まみれになって。何度も倒れ、それでも起き上がってゴ-ルを目指した君、どうしてゴールしたか記憶に無いという。これが君の、陸上に対する心意気。何が何でもゴールに向うそのアスリ-ト魂。
此の頃、機関紙の「メイトの横顔」の君の紹介で、今後、10 Naritasan02年間はいい汗をかき、出来れば海外のレ-スにも参加(出場ではなく)と語っていましたが、ここに来て、世界のボストン・バンク-バ-マラソンと立て続けに参加し、この世界でも、充分な足跡を残しました。

それと、もう一つ、走るだけではなく、随分山にも登りましたね。近隣の低山はともかく、最初のアタックは南アルプスは北岳(富士山に次ぐ日本第二の高峰)でした。それも、裏側から登る、セミプロのルート。河原に張ったテントの前で、私が造る夕飯を待つ君はスプ-ンを鳴らして年甲斐も無く可愛かった。テント撤収に、寝袋も畳めない君、いやパ-ティに不本意ながら叱る私に、一生懸命にやろうとしていた君達はやはり(走ることと同じに)輝いていた。その後に踏破した北岳山頂上は至福の場。君は覚えているか、皆が食った昼食は単なるカップヌ-ドル。その美味かった事。これを機に我々は山に傾いていきましたね。
穂高・越後三山等たて続けに厳しい山を登ってきました。それが、一時期の停滞から2007・8年と東北にシフトして行きましたね。その後の二年間の山行は山だけでは無く、歴史の街を加えた東北探訪の大人の旅。これは、私の気持ちでもありましたが、今思えば、正に君へのレクイエムだったような気がします。先ずは、藤原3代の桃源郷観光(その後世界遺産になりましたね)と栗駒山・焼石岳登山(その後栗駒周辺に地震がありました)そしておまけのあの小沢の故郷探訪。翌年は奥の細道の石山寺から、月山・鳥海山登山・江戸時代の繁栄の港酒田と山盛りの海鮮丼、加えて藤沢周平の鶴岡と。私にもこんな楽しい2年間の旅はありませんでした。
2009 年夏に、あろうことかWGM の夏合宿で背中の痛みを訴えられ、寄る年波の体力の事もあり剣岳をやっておこうと計画していた矢先、この年の山行は中止となりました。あれから3年、君のいない山はやっていません。闘病むなしく今2011 年10 月、亡くなる一月程前に私も一緒に行きたかった、故郷の白神山地を訪ずれたそうですね、そして時を急ぐように君は逝かれました。それは何故なのか、東北その秋田の二つ井から生まれた君が・・・・。やっと解るような気がします。
このいい加減に成り下がってしまった日本とかけがえの無い地球・故郷に対する死をかけての君の抗議だったのではないでしょうか。上っ面の「頑張ろう日本」では無く。

君の生涯の友の一人、清水縣二

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